陰流

陰流とは、室町時代、文明十五年(一四八三年)頃、伊勢愛洲氏の一族・戦国武将愛洲久忠が編み出した日本最初の刀法「影流」の別称である
「愛洲影流(愛洲陰流)」「猿飛影流(猿飛陰流)」も「影流」の別称であり、「陰流」と「影流」とは別々の刀法では無い
愛洲久忠が遣明貿易で明国・皇帝直属軍である御林軍(近衛兵)の日本刀部隊「静旗隊・粛旗隊」の刀法指南として伝授したのが「影流」である
元禄年間、松下見林の「異称日本伝」で紹介された「武備志」の「影流之目録」で「猿飛」「猿回」「山陰」が掲載されている
天保年間刊行の「撃剣叢談」(源徳修斎著)では「武芸原始 影流」で「新影流」「新陰流」等「陰」を「影」の同義語として使用している
また、古くは永禄九年、上泉伊勢守信綱の「新陰流目録」にも「陰」を「影」の同義語として記録されている
この流派を基に上泉信綱が新陰流(新影流)を開いた

新陰流

念流、新当流、陰流の3つ(兵法三大源流)をはじめとする諸流派を参考とし、その中でも特に陰流を発展させたものとして新陰流と名づけられた[1]
上泉信綱の弟子以降の流派: 上泉信綱は、新陰流を伝授するために全国各地を巡っており、多数の弟子がいた
疋田景兼、神後宗治、柳生宗厳、丸目長恵の四天王を筆頭に、松田清栄、野中成常、駒川国吉などが有名
また、胤栄とも交流があった
柳生新陰流: 系譜: 新陰流は上泉伊勢守より「無刀取り」の公案を課せられた柳生宗厳に伝えられ、柳生氏によって伝承されたため柳生新陰流の名で広く一般に知れ渡っているが、新陰流に対して分派を起こしたわけではなく流派名も変更はなされていない
本来「柳生」を冠した流派名は弟子筋の流派であり、たとえば、柳生宗厳の高弟であった柳生姓を許された柳生松右衛門(大野家信)より有地内蔵允(有地元勝)を経て、福岡藩に伝わった系統は「柳生新影流」と称している
ただし、武道学では、上泉信綱が伝えた内容と柳生氏が伝えるようになってからの内容の差異、あるいは柳生氏の系統とそれ以外の新陰流の差異を区分するため、「新陰流」と「柳生新陰流」を区別して使用することもある
また、新陰流の元となった陰流とは交流があった様で、陰流の愛洲移香斎の出身地近くには柳生姓を名乗る人が多い
柳生宗厳以降、五男の柳生宗矩の江戸柳生と、孫である柳生利厳(宗厳の嫡子柳生厳勝の次男)の尾張柳生とに分派する
また柳生宗厳の時代を特に大和柳生とも呼ぶことがある
新陰流の道統は孫の利厳が慶長10年6月に三世として印可相伝し尾張柳生に伝わる
江戸柳生からは柳生三厳(柳生十兵衛)、尾張柳生から柳生厳包(柳生連也斎)など天才剣士を輩出した
ただし、開祖柳生宗厳からの「一国一人の同統」は尾張柳生に引き継がれた為、江戸柳生は分派に過ぎないとされている
明治以降: 明治以降も、柳生利厳や厳包と並び称された達人であった第十九世・柳生厳周によって尾張柳生の剣は受け継がれた
大正2年(1913年)、皇宮警察で柳生新陰流を伝習するため(明治天皇の聖旨によるものと伝えられている)、厳周と長男の柳生厳長(後の第二十世)は宮内省済寧館へ出仕した
厳周と厳長の上京中、厳周の高弟の神戸金七が名古屋の道場で指導した
柳生厳長は新陰流の拠点を名古屋から東京に移し、自らは近衛供奉将校団師範、武徳会全国各府県中央講習会講師などを歴任したが、大正10年(1921年)、宮内省は柳生新陰流の伝習の取りやめを決定した
また、厳周の高弟で「明治年間の印可者中、最高の地位の人」と称えられた下條小三郎は、合気道開祖・植芝盛平と交流し、植芝に新陰流兵法を教えたといわれる
太平洋戦争時、名古屋大空襲によって江戸時代以来の名古屋の道場が焼失してしまったが、昭和30年(1955年)に東京柳生会が発足し、活動を再開
昭和41年(1966年)、二十一世の柳生延春が柳生会を継承
さらに平成18年(2006年)、柳生耕一が二十二世を継承した
現在は正当な道統を継ぐ団体として「柳生会」が東京、名古屋、大阪それに広島などを中心に活動している
これとは別に、二十世・柳生厳長の高弟であった渡辺忠敏氏より指導を受けた渡辺忠成氏が興した「新陰流兵法転会」や第十九世・柳生厳周の流れをくむ道場も健在である
皺文皮撓(蟇肌撓、ひきはだしない)という袋竹刀を稽古に用いる剣術として斯界に知られ、燕飛等の一部の稽古に枇杷製の先細な木刀をつかう

タイ捨流

タイ捨流(たいしゃりゅう)は、丸目長恵によって創始された兵法である
丸目蔵人佐(丸目長恵)は、肥後(熊本県)南部を領していた相良氏の家臣である
上京し、新陰流を創始した上泉伊勢守秀綱の弟子となり、将軍足利義輝の前での演武で秀綱の打太刀を勤めている
永禄10年(1567年)秀綱より、上泉伊勢守信綱の名で印可状を受けている
その後、新陰流を九州一円に広めたあと、独自の工夫によりタイ捨流を開流した
九州一円に広まり、江戸時代には、人吉藩、佐賀藩で盛んに行われた
鹿児島藩の示現流、福岡藩で盛んだった安倍立、今治藩や広島藩の真貫流もタイ捨流を学んだ流祖によって創流されている
「タイ」と仮名で書くのは、「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つを捨てるにとどまり、太とすれば自性に至るということにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、字によって意味を限定してしまうので、仮名で「タイ」と書くことで何れの意味にも通じることができるからである
技は新陰流を基礎として、自分も生かし、相手も生かす「活殺剣法」で、形の最大の特徴は、右半開に始まって左半開に終わり、すべて袈裟斬りに終結する独特の構えにある
宮崎県西臼杵郡五ケ瀬町に伝わる棒の手の心影無雙太車流の元流派ともいわれている

疋田陰流

疋田陰流(ひきたかげりゅう)とは、上泉信綱(上泉伊勢守)の甥といわれる疋田景兼の系統の新陰流
剣術・槍術・薙刀術を含む(剣術のみもしくは槍術と薙刀術のみとなった系統もある)
疋田新陰流、新陰疋田流、疋田流などとも呼ばれている
系譜では上泉信綱の師である愛洲久忠(愛洲移香斎)を初代としているため愛洲陰流、愛洲新陰流とも呼ばれた
疋田景兼自身は新陰流を名乗っており、疋田の弟子の山田勝興(山田浮月斎)が疋田陰流(もしくは疋田新陰流)を名乗ったといわれている
現在残っていると思われる疋田系の新陰流は以下のとおりである
(ただしこれら以外にも疋田陰流が伝わっている可能性はある) 細川家仕官時代の景兼の弟子の上野景用から伝えられた系統が、細川家が熊本に移封したことにより、熊本藩で伝えられている
同系統では江戸時代中期に上野家から和田家、横田家、速水家等の五師範家に別れ、和田家の流れが今に伝えられている
熊本藩の史料では、すべて柳生家の新陰流を「柳生流」とし、疋田伝の新陰流を「新陰流」と呼称している
近年、他の新陰流と区別するために「肥後新陰流」なる名称も用いられているが、流派名は「新陰流」である
雑誌『極意』の記事によると、空手家の藤本貞治(国際空手道尚武会会長)が古武道統成会という団体で疋田陰流剣術を学んだという
藤本が学んだ疋田陰流は指切を特徴としているというが伝系は不明である
また、尾張貫流槍術に当流の大太刀の形が伝わっている
また同流では、鳥取藩で伝承された新陰疋田流槍術の形も研究されている
大太刀とは違い、槍術は戦前の武徳会での鳥取藩伝の新陰疋田流槍術との交流稽古を経て伝わったものである
なお、鳥取藩に伝わった雖井蛙流の先代宗家が新陰疋田流槍術の師範でもあったが、現在、この系統の新陰疋田流槍術、薙刀術の伝承状態は不明である

神道無念流

神道無念流(しんとうむねんりゅう)は、福井嘉平(福井兵右衛門)によって創始された剣術の流儀
居合も含むが、実際に居合も学んだ者は極めて少なく[1]、免許皆伝に至った者でも大部分は剣術のみ修行した者であった
福井嘉平は下野出身で新神陰一円流を修行し、廻国修業の途中、信州の飯綱権現に参篭し、神道無念流を開いたと伝えられる
その後、第2代の戸賀崎暉芳(戸賀崎熊太郎)、第3代の岡田吉利(初代・岡田十松)の頃から広まっていった
岡田十松の系統: 岡田吉利は「撃剣館」という道場を開いた
岡田吉利の弟子に、鈴木重明(鈴木斧八郎
のちに鈴木派無念流を開く)や斎藤善道(初代・斎藤弥九郎)、金子健四郎がいる
岡田吉利以後は、吉利の子・岡田吉貞(2代目・岡田十松)が第4代となった
吉貞は岡田吉利や斎藤善道を凌ぐ達人であったとされ、隠居後に斎藤の道場「練兵館」(後述)の客分となり、練兵館で指導にあたった
第3代の岡田吉利の弟子であった斎藤善道は、撃剣館師範代を務めた後、道場「練兵館」を開いた
斎藤を凌ぐ実力の岡田吉貞が、弟の岡田利章(3代目・岡田十松)に流儀を継承(第5代)させ、練兵館の客分となって指導にあたった
練兵館は、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館と並び江戸三大道場と並び称される隆盛を誇ったといわれているが、この評価は後代のものである
幕末から維新の戦乱をくぐりぬけ、長州藩と土佐脱藩浪人・坂本龍馬を結びつけた渡邊昇は生き残り、初代大阪府知事から会計検査院長、そして元老院議官を経て、大日本武徳会の発起メンバーとなり、それまで流派がバラバラであった剣道の統一に努めた
また、斎藤龍善(斎藤新太郎
斎藤善道の子
2代目・斎藤弥九郎)の弟子であった長岡藩士・根岸信五郎は、北越戦争を生き抜き、1880年(明治13年)頃、東京に「有信館」という道場を開いた
根岸から流儀を継承した中山博道によって有信館は、修道学院と並ぶ戦前の剣道の二大勢力となった
中山博道の子息、中山善道に師事し剣術ならびに居合術、杖術の全伝を教授された佐伯宗一郎が九代目を継承し「剣聖中山博道先生伝承武術保存会」して活動していた
佐伯宗一郎の逝去に伴い、その道統および保存会は有信館三代目館長である小川武に継承され、現在も活動を続けている
中山博道の高弟のうち中倉清、中島五郎蔵、羽賀準一は有信館三羽烏と呼ばれた
このうち、中倉清は剣道の公式戦69連勝という前人未踏の記録を打ち立て、「昭和の武蔵」と呼ばれた
羽賀準一は戦後も、投げ技や足払い、足がらみなども有効な、戦前のままの剣道を指導した
羽賀の弟子たちは、1966年(昭和41年)に一剣会羽賀道場を設立し、後には日本剣道協会を設立し、現在の剣道では禁止されている投げ技や足払い、足がらみなども有効な、戦前のままの剣道を稽古し続けている
戸賀崎胤芳の系統(戸賀崎流): 岡田十松系とは別に、2代目戸賀崎暉芳(戸賀崎熊太郎)の子・胤芳(2代戸賀崎熊太郎)は岡田吉利(初代岡田十松)の庇護・薫陶をうけ、やがて自らも流儀を継いで、1778年(安永7年)江戸裏二番町に道場を開いて隆盛を博し、当時門弟3000人を数えたという
その後、3代芳栄(喜道軒)、4代芳武(尚道軒)と続いた
5代保之進(好道軒)の時に道場が廃された
しかし、戸賀崎氏の出身地武蔵国清久(現・埼玉県久喜市上清久)ではその後も戸賀崎流として存続した
2006年(平成18年)、現当主正道により再び神道無念流恵文館道場として復興している
八戸藩伝神道無念流: 幕末に八戸藩に伝わった系統の神道無念流は、現在は居合のみ八戸市に現存している
この系統は八戸市指定文化財の指定を受けている
神道無念流を学んだ人物: 門人に、桂小五郎(長州藩士)、大村藩の渡邊昇(大村藩士)、芹沢鴨(水戸脱藩)、永倉新八(松前脱藩)、ほかに井汲唯一(津山藩士)、伊東甲子太郎、仏生寺弥助らがいる
特に、練兵館においては長州藩士が多く学んでいる
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